3・11に思い出すこと
2015年 03月 11日
私の3・11の思い出はこうだ。
震災の日から確か9日目の日だったと思う。私はいつもの様に実家で夕方のニュースを見ながら夕食を食べていた。カメラは被災地を映していた。がれきの間の小道を初老の男性が歩いていた。カメラが近づいて、リポーターが彼に「すみません」と声をかけた。
「何かお探しですか?」
「いや、この辺りで孫とはぐれまして。一緒に遊んでいたら津波が来て、確かこの辺りだったんです。毎日探しに来てるんですけど。」
「・・・お孫さんはおいくつですか?」
「三歳になったばかりです。」
男性は特に混乱しているわけでもなく、悲しみにくれているふうでもなく、まるで「バスを待ってるんですが、なかなか来ませんで」とでも言っているような平静さだった。そしてそれだけ答えると立ち去っていった。
三歳の子供が津波にのまれて、一週間以上生き延びている確立は、ほぼない。
男性がいつまでその小さな孫の姿を探しに出るのだろうと思うと、食べ物が口の中で固くなってもう喉を通らなくなった。
その頃私は全く些細な事で父と仲違いをしていた。自分がくだらなく思えた。
私は生後2ヶ月程の子供と二人で一日のほとんどを自分の部屋ですごしていて、南と東に窓のある二階の部屋は冬の日の光がよく入って毎日明るかった。そしてテレビでは一日中震災のニュースが流れ、まるで世界は赤ん坊が寝ている日の当たる部屋と、テレビのむこうの震災のふたつだけになってしまったように思えた。月末のある夜、私は久しぶりに三宮に仕事に出た。繁華街もひっそりとしているのではないかと思ってたのに、街は全くいつもと同じだった。カラオケ屋の看板は煌々と明るく、サラリーマン達が酔っぱらって機嫌良く歩いている。一体どうなってるんだ? テレビの向こうの惨事は?
傷付いた人もいれば笑っている人もいる。世界はいつだってそんなものだ。
何年か前にスマトラ島で大きな地震と津波が起こった後、ジャカルタの友人が追悼の曲を書いていた。リハーサルに曲を持って来た時、彼は言った。
「こういう惨事で亡くなった人達は天使だったんだと思うことにした。天使だから神様が早くにむこうの世界に連れて行ったんだってね。そう思わないと、悲しすぎる。」
祈。
震災の日から確か9日目の日だったと思う。私はいつもの様に実家で夕方のニュースを見ながら夕食を食べていた。カメラは被災地を映していた。がれきの間の小道を初老の男性が歩いていた。カメラが近づいて、リポーターが彼に「すみません」と声をかけた。
「何かお探しですか?」
「いや、この辺りで孫とはぐれまして。一緒に遊んでいたら津波が来て、確かこの辺りだったんです。毎日探しに来てるんですけど。」
「・・・お孫さんはおいくつですか?」
「三歳になったばかりです。」
男性は特に混乱しているわけでもなく、悲しみにくれているふうでもなく、まるで「バスを待ってるんですが、なかなか来ませんで」とでも言っているような平静さだった。そしてそれだけ答えると立ち去っていった。
三歳の子供が津波にのまれて、一週間以上生き延びている確立は、ほぼない。
男性がいつまでその小さな孫の姿を探しに出るのだろうと思うと、食べ物が口の中で固くなってもう喉を通らなくなった。
その頃私は全く些細な事で父と仲違いをしていた。自分がくだらなく思えた。
私は生後2ヶ月程の子供と二人で一日のほとんどを自分の部屋ですごしていて、南と東に窓のある二階の部屋は冬の日の光がよく入って毎日明るかった。そしてテレビでは一日中震災のニュースが流れ、まるで世界は赤ん坊が寝ている日の当たる部屋と、テレビのむこうの震災のふたつだけになってしまったように思えた。月末のある夜、私は久しぶりに三宮に仕事に出た。繁華街もひっそりとしているのではないかと思ってたのに、街は全くいつもと同じだった。カラオケ屋の看板は煌々と明るく、サラリーマン達が酔っぱらって機嫌良く歩いている。一体どうなってるんだ? テレビの向こうの惨事は?
傷付いた人もいれば笑っている人もいる。世界はいつだってそんなものだ。
何年か前にスマトラ島で大きな地震と津波が起こった後、ジャカルタの友人が追悼の曲を書いていた。リハーサルに曲を持って来た時、彼は言った。
「こういう惨事で亡くなった人達は天使だったんだと思うことにした。天使だから神様が早くにむこうの世界に連れて行ったんだってね。そう思わないと、悲しすぎる。」
祈。
# by masakohappymusic | 2015-03-11 22:35 | Live Schedule